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2005年 11月 22日
(2005年7月。とある講演会。広島のホテルにて。)
「臨時ニュースを申し上げます。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋上において米英と戦闘状態に入れり・・・」 と、当時の録音が流れる。 「軍国少年の私は、とうとうやったか。アングロサクソンをやっつけるんだ、と思いましたね」 「陸軍の軍人さんが集まる映画館なんて、軍靴の革や汗の匂いで臭いのなんの。それが海軍の兵隊さんが通り過ぎるとオーデコロンの匂いがさっと鼻を掠めるんですよ。絶対、海軍に入る、と決めました。すっかり騙されたんですねえ」 福山藩士の末裔の八杉さんは1943年、15歳で海軍入り。成績も優秀だった。 ある日、上官に呼ばれ、耳を引っ張られた。 「ビンタでもくらうのかと思ったら耳打ちされました。お前の行き先はなあ。大和じゃ。絶対に沈まんぞ。よかったのお、と」 水兵憧れの大和乗艦。 飛び上がらんばかりだったが、 「海軍が大蔵省をもごまかして呉市で極秘建造した大和の存在は絶対秘密。母にも言えなかった」 驚きの連続 「初めて見た大和に度肝を抜かれました」 全長263m。幅39m。世界最大。 「口径46cm。長さ21mの主砲の砲身がでーんと現れました。ブリッジ(艦橋)は見上げんばかり。こんな鉄の塊がよく浮いていると、声も出ませんでした。」 「なんと艦橋の一番てっぺん。馬鹿の高上がりじゃない。エリートの集まるところです。」 恐る恐る挨拶に行く。 「足元に司令長官とかいる。殴られるかと思ったら、すごい奴じゃのお、と言われた」 17歳の上等水兵。上官たちも敬服の眼差しだった。しかし狭い。 「失礼いたします」 大声で幹部の背をすり抜ける。 ブリッジは巨艦の頭脳。当然、狙われる。 出撃準備、おもわぬ再会 「私たちが死んだら、砲塔は自分の判断で撃て、というマニュアルもありました。ある日、三田尻沖に停泊していると、可燃物すべて陸揚げしろ、と言われました。机、椅子、毛布、すべて陸揚げしましたよ。本当に最後なんだと覚悟しました。大和は鉄と人だけになったのです。」 最後は、郵便物急げ、だった。 「事実上の遺言です。郵便船が去った瞬間、骨肉の絆はすべて切れたのです」 実は3月25日、上陸許可が出た。 呉には、上陸どころか大和に乗っていることも知らないはずの母、まきゑさんが待っていた。 短い再会。 「大和の乗組員は、勝手に電話したり手紙も出せない。分隊士がこっそり母に教えてくれたのでは」 別れ際、初めて母に敬礼した。 「母さん、長い間お世話になりました。私の分まで元気で長生きしてください」 「体に気をつけてね」の声を背に船に身を翻した。 日向灘を出たとたん、米軍の潜水艦が待っていた。 魚雷をかわすため巨体はジグザグに走る。 その間も八杉さんは幹部に飯を運ぶ。 「何しろ、3千名の握り飯。みんな手が真っ赤でした。彼ら烹炊(ほうすい)員は、一人も助かりませんでした」 最後の晩餐 ついに天1号作戦(沖縄特攻)発動。 4月5日夜、最後の宴会。 「気持ちよう飲まんと機嫌よう死ねんぞ、と言われ、飲んだこともない日本酒を飲みました。ないのは果物だけ。ご馳走でした」 6日夕、甲板に総員が集結。皇居の方を向き、天皇陛下万歳を叫んだ。 「君が代」「海ゆかば」斉唱。各自が故郷の方角を拝む。 いよいよ戦闘配置へ。 「配置前、みんなトイレに駆け込みました。出てくる先輩たちの目は真っ赤。みんなトイレで泣いていたんですね」 敵機襲来 7日朝10時、マーチン大艇一機がスーっと横切った。正午過ぎ。 「敵機襲来!」 見張員が叫んだ。 「測距儀のレンズを覗くと、飛行機の大群で真っ黒でした」 あっという間に次々と爆弾が落ち大音響の連続。艦内スピーカーも駄目になった。 講演会場に映画などで使われる爆撃などの効果音が流れ、臨場感に溢れる。 大音響の中、八杉さんは大和の大きな写真の各部を指をさし、腕をまわして敵機が舞う様子や、両手の指をぱっぱと開き、高角砲で迎え撃つ様子などを表現する。 大和での役割は艦橋から敵機との距離を測り、砲手に指示を出すことだった。 だが、レーダー技術の遅れた日本。基本的に三角測量による目測なのだ。 不運なことにこの日は「雲量10」。水平線まですべて雲。 敵機は爆弾を落とすや、あっという間に上昇して雲に隠れる。 「雲に消えればお手上げ。再び現れれば大和までわずか数秒。大砲の照準を合わせるどころではない。完全ななぶり殺しでした。ついに一発の主砲も撃てなかったんです」 轟沈 米機は左舷ばかりを狙った。魚雷も9発受けて大きく傾く。 「総員最上甲板へ」の号令。 「要は戦闘配置離脱ですが、あくまでも、逃げろ、という言葉はなかったのです。そこら中、死体だらけでした。30度くらいに傾き、大勢の兵隊がざあっと甲板上を滑り落ちていった。大和が沈むなんて、と信じられなかった」 斜めになった測距塔に保本政一分隊士がいた。 「ズボンを押し下げ、いきなり腹を軍刀でかっ裂きました。ホースから飛び出す水のように、血が噴出しました」 少年、八杉の目前で割腹自殺。 「いつも、お前には世話かけたなあ」と言ってくれた人だった。 だが、ショックを受けている間もない。 「猛烈な海水がなだれ込み、巨大な煙突の中に3人が吸い込まれて行った」 このままでは巻き込まれる、と必死に海へ飛び込んだ。 「海中で巨大な渦が回っているのがわかった。海軍では水の中では絶対に目を開けろといわれていました」 あまりに苦しく、お陀仏かと思った瞬間、水中が黄色く光った。 大爆発。 大和の火薬庫に引火したのだ。 「直径が580mにわたって、海面が40m盛り上がった水中でしたから、天高く上がった巨大な黒煙は見ていません」 と別の写真を指した。 地獄は続く 運良く、海上に押し上げられ息ができた。 「上空がキラキラとアルミ箔のように光っていた」 アルミ箔ではない。 大爆発で上空に重い重い鉄片。 それが、猛スピードで落ちてくる。 あたった兵隊たちは「うっ」と呻いて海中に沈んでいった。 「鉄片で両足を切断された人がいました。出血で助かるはずないのに最近まで義足でご健在でした。どうしてか分かりますか」 鉄片は爆発で焼けている。傷口を「焼肉」にして血管を塞いだのだ。なんという壮絶さ。 鉄片は八杉さんの足にも当たった。「河童」も溺れる。 「助けてくれ」と叫んだ。 振り返ると鼻ひげの上官、川崎勝己高射長が優しく見ていた。 自分の丸太を押し流してくれた。 「落ち着くんだ。もう大丈夫だ。お前は若いのだから頑張って生きろ。その言葉は死んでも忘れません。」 南の海といっても4月初旬。体は冷え切り、睡魔が襲う。 「ああ、はよ、去(い)にたいわ」と関西弁を残して没した人も。 高熱の蒸気を浴び、顔がおしろいを塗ったように真っ白になっていた人は「俺も連れて行ってくれよななあ」と弱弱しい。上官が大声を出した。 「ズボンの中に小便を出せ!」 水中放尿。温泉に浸かったようになった。「俺の体温だ」と生き返った。 漂う中に16歳の少年がいた。 「眠ったら死ぬぞ。起きろ」 何度も顔をひっぱたいた。そのたびに 「申し訳ありません」と目を開けるが、力尽きて沈んだ。 救助船が来るも 漂流4時間半。救助の駆逐艦2隻がきた。待ちきれず泳ぎ出した人も。 「行くなー、行くなー、と叫びました。あの体力消耗で、服を着てクロールは無理なんです」 近くに見えても相当の距離だ。 「半分も行かないうち、海中に消えました」 川崎高射長は、駆逐艦を目の前にして、逆に大和のほうに泳ぎだし波間に消えた。 「飛行機から大和を守る責任者でした。何もできなかった責任を感じての自決だったのでしょう」 八杉さんは駆逐艦に引き上げられた。 「救助兵が馬乗りになって私を殴り続けたんです。目は真っ赤でした。貴様ー。よかったなあ、よかったなあ」と。 「殴られて嬉しかったことなんて、人生あの時だけです」 翌日、駆逐艦は佐世保に戻った。 「見事な青空と桜吹雪。みんな甲板で男泣きしました。くそおっ、これが昨日だったら、と」 一億総攻撃 死地への特攻『大和沖縄出撃』。カミカゼなど捨て身攻撃で玉砕へと突き進む日本。 大和が出撃もせずに無傷で終戦となれば、どんな批判を受けるかわからなかった。 「1億総攻撃なんだ。1億玉砕で大和が無事ではどうしょうもないんだぞ。ばかやろう、兵隊たちを犬死にさせる気かあ、など怒号が飛び交っていました」 八杉さんは、伊藤整一第2艦隊司令長官ら幹部たちの話を聞いていた。 「片道の燃料しかつんで積んでいない、と言われましたがそれは嘘です」 特攻というと「天皇のために死ね」と同義語だが(?)、八杉さんは強調する。 「海軍2年半。1度も死ね、とは言われませんでした」 (八杉さん略歴:音楽家を目差していたがピアノを買える時代ではなくアコーディオンで練習、NHKのど自慢の伴奏、ヤマハ系楽器店勤務、その後独立) 疑問 そんな毎日にも「大和」への思いは消えない。 1967年、徳之島で開かれた大和の慰霊祭に呼ばれた。 だが遺族たちは、大和が沈んだ方向と全く逆の方向に手を合わせ花束を放り込んでいた。 (当時大和の沈没地点など詳しいことは一切不明) 「こんな悲しいことはない。よし、大和を探し出す、と決意しました」 徳之島西方沖とは、元乗組員の吉田満氏(故人)の名著『戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫)に書かれていた。 「徳之島のはずはない。奄美大島までも行き着かんからなあ、と上官が言っていたのを、はっきりと聞いています」 沈没場所は(徳之島より)ずっと九州よりの坊の岬沖だった。 名著は、筆者も小学生時代に読んだ。「これ以上、乗っては沈む。救助ボートに這い上がる乗組員の手首を日本刀で切った」という内容は、子供心にも衝撃的で記憶に残っていた。最近もサンケイ新聞で真偽が話題になった。 「ありえません。私は吉田さんに問いました。あれはフィクションですかと。彼は頷いた。それならいいんです、と言いました。もともと、雑誌の連載では『小説軍艦大和』だったのに、いつからかノンフィクションになったんです」と振り返る。 大和との再会 NHKが「大和捜索」を計画した。先導役は八杉さん。 「これは、行き残りのあの方に聞いてね、これはアメリカの公文書館、とか教えました」 1990年7月30日。万感の再会劇を果たす。 「英国人が操縦する潜水艇の小さな窓で目を凝らすと、目の前に大和が現れました。船体は無惨に4つに裂け、遺骨の多くは、船首の菊の紋章の袂に集まっていた。遺骨を持って帰ろう、との意見もあったが反対しました。天皇の紋章の下が本当に眠れるところだと思います」 -当時の八杉さんの手記 『 碑 』 - あの日、青春のエネルギーが激しく燃焼した海は、いま紺清に輝き大きくうねっていた。 光途絶えて久しい海面下三百四十m。 戦艦大和は巨大な廃墟と化し、静かに眠っていた。 自らを終焉の碑として。 その後 奇跡の生還を遂げたが、順風満帆ではなかった。 終戦まで本土決戦要員。広島原爆の救援活動で被爆した。 「後遺症で夏になると階段も上がれません。被爆者とわかると見合い結婚も断られた」 音楽の才を頼りに懸命に生き抜いた。 最後まで「生きろ」と言ってくれた海軍の上官たちや、海底に消えた先輩、同僚たちのために。 「今世紀を担う10代の人たちに私の話をぜひ、伝えてください。若い人は享楽を貪るだけなんですか。インターネットで仲間を集めて自殺するとは一体なんですか。生きる証を残してください。私の仲間は生きたくても死んでいったんです。あの悲惨さを絶対忘れないでください。わずか60年前のことです」 乗組員約3000名中、生還者わずか276名。 ほとんどが他界した。 ■WILL2005年9月号 抜粋 文:粟野仁雄氏 ( )内、管理人 ここまで読んでくれた君! 「日本悪しかれ」主観、「大和はただただ無駄だった」主観が少しはとけたのではないのでしょうか。 でも、こんなブログ書いてる私でさえいまだにこういった写真をみると、一瞬引いてしまいます。 ・・・ブログタイトル変えようかな。 最近、韓国が何しようが興味ないし(^^; ■「男たちの大和/YAMATO」 見ました。なんと八杉さんの体験が映画に取り込まれています! 私は6回ほど泣きました。が、ツレは寝てました^^; 確かに突っ込みどころ多いけど、私にはそれを補って余りある感動でした。
by sinsemilla_27
| 2005-11-22 22:35
| 日本は悪??
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